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2008.02.25 Monday  | - | - | - | 

日本が世界に問うた人種差別撤廃

 今、我が校の1年生の英語で、第16代アメリカ大統領エイブラハム・リンカーンについての長文をやっています。リンカーンと言えば、アメリカ人に最も人気の高い大統領の一人で、奴隷解放宣言を行ったことでも有名な人物であります。

 しかし、どうも英語の教科書というのは英米の文化に偏ったり、あるいは二言目には国際理解教育と言って日本の外交と直接関係のない国のことばかりを取り上げて、肝心な日本のことや我々が目を向けなくてはならないアジアの近隣諸国、あるいはイラクなどの世界情勢については取り上げない傾向にあります。「そんなことよりもっと知らなくちゃいけないことがあるだろう。」と言いたくなる内容です。私は言語社会学者の鈴木孝夫氏が提言するように、日本が西洋から何かを学ぶ時代はとうに終わっていて、これからの日本はアジアの代表として、また世界に誇る大国のひとつとして日本の素晴らしい精神・文化・伝統を世界に発信する役目を担っているのだと思います。そしてそのために英語という言語の「武器」がある。ただただ英語は世界語だからと日本人としてのアイデンティティそっちのけの浅はかな理由で英語教育を推し進めていてはだめなのです。今の教科書の英語教育では何年勉強しても「核ミサイル開発」、「米軍基地再編」などという英語表現も身に付かなければ、「拉致被害者を返せ」という英文すら作れるようにはなりません。国際教育と言うけれど、本当に我々日本人が考えていかなければいけない問題がほとんど取り上げられていない今の日本の英語教科書はどうにかならないものかと思います。

 日本の精神や文化を世界に発信するためには、英語だけペラペラとしゃべれても意味がありません。英語がしゃべれても、中身がろくでもないと日本人の恥をさらすようなものです。やはり、英語よりも先ず日本の歴史や伝統についてたくさんのことを知ることが大切です。「日の丸の由来は何ですか?」と外国人に問われて、英語で満足のいく返答ができる日本人が一体何人いるでしょう。「日本人にとって天皇とはどんな存在なのですか?」と問われたらどうでしょう。実は恥ずかしながら、こちらは私もうまく返答できる自信はありませんが・・・。

 個人的には、英語の教科書の長文においては、大部分を日本の歴史や文化についてを取り上げるべきだと思います。かつての修身の教科書に載っていたような偉人(例えば二宮尊徳や吉田松陰など)の話などを英語で勉強できたら素晴らしいと思うのですが。それがあろうことか、今や英語以外の教科を英語で教えるイマージョン教育なんていうものをやっている学校があるという状態なのですから、日本の英語教育は全くどうかしています。

 今、私のクラスではリンカーンの奴隷解放宣言についての長文をやっていますが、その際に人種差別がらみで、日本人としてもっと知っておくべき出来事、1919年のパリ講和会議において日本の代表団が提案した「人種差別撤廃条項案」についてプリントにまとめて配布しました。リンカーンもいいけれど、日本人ならこちらも知っておくべきだろうと思ったからです。タイトルは「日本人の偉業〜日本が世界に問うた人種差別撤廃〜」としました。

 プリントの内容を要約すると、

 1920年、第一次世界大戦の反省を活かし、世界平和の理念を強固にするために国際連盟が設立されました。それに先駆けて1919年フランスで行われたパリ講和会議で日本は「人種差別撤廃」を盛り込んだ画期的な提案をしました。このような提案をしたのは世界初のことで、日本が誇るべき提案です。ところが当時世界各地に植民地を持っていたイギリスが猛反対、オーストラリアや議長であるアメリカのウィルソン大統領も最終的には首を縦に振らず、日本の提案は却下されました。日本の人種差別撤廃条項案が却下されたことは、すぐに世界中に知れ渡り、東南アジア、エジプト、インドなどでは次々と独立運動が起こりました。アメリカでは黒人達による暴動が起こりました。そもそも日本が世界の舞台で人種差別撤廃を訴えたのはなぜでしょう。当時脱亜入欧を合言葉にアメリカに移住する日本人が増えていましたが、アメリカ人はあまり快く思ってはいませんでした。その感情はやがて「日本人排斥運動」という形になり、カリフォルニアなどでは日本人は法律で土地所有を禁止されたりしました。日露戦争と第一次世界大戦で戦勝国になった日本をしても人種の壁は崩すことのできないものだったのです。それがパリ講和会議の提案に繋がっていきます。ところが、ウィルソン大統領が提唱する「世界国家平等」に同調し、人種差別撤廃を訴える絶好のチャンスだと思っていたパリ講和会議で日本の提案は無残にも却下されてしまいました。それから26後、新たに設立された国際連合の第1章第一条にようやく日本がかつて提案した「人種差別撤廃」が盛り込まれました。初めて世界にこの「人種差別撤廃」を提案したのは他でもない、私達の国「日本」なのです。

 というようなものです。却下されたというくだりでは「ありえない!」「ふざけるな!」などという反応を示した生徒もいました。「日本ってこんな立派なことをしたんだ」という感想ももたせることができたと思います。自信を失ってしまった現代日本人に必要な「自国の誇りを取り戻す教育」にもなると思いますし、もしこのような日本人の成した偉業について英語の長文で勉強できたなら、外国人に日本の素晴らしさを伝えることができるようになるかもしれません。
2006.10.01 Sunday 02:46 | comments(0) | trackbacks(0) | 憂國・教育 | 

国旗・国歌と教育

 以前、「立て直そう日本・女性塾」幹事長であられる伊藤玲子先生による「日教組を斬る!」という講演会を聴きに行ったことがあります。

 伊藤先生の講演では、日教組が戦後学校教育における悪の巣窟であることを様々なデータをもとにお話されました。私は私立学校の教員なので、あまり極端な反日教育をする日教組らしき人は校内に見かけないのですが、私立でも何でも学校の教員である私ですら「こんなけしからん教員がほんとにいるなんて信じられない。」と思うくらいですから、学校関係の職でない方からしてみたら、いま日本の学校教育がどんなことになっているのか、聞いてビックリといったところでしょう。

 講演会の話題のひとつに、国旗・国歌問題がありました。伊藤先生によると、国旗国歌法ができた平成11年に、神奈川県鎌倉市では卒業式で使う国旗を各学校に配ったのだそうですが、中学校でしっかりステージ上に掲揚しているのはなんとわずか3校。他の中学校は三脚を使って立て掛けているそうです。小学校はさらにひどく、ステージ上ではなくフロアに設置してある学校もあるのだそうです。国歌においても、戦後教育ではみんな平等であるという理由から、歌わない権利がある、というのです。

 実際、生徒も教師もみな平等なので、教師がステージ上に立って式を行うことをしない学校もあります。人の上に立つのは不平等だからです。教師も生徒もみな同じフロアに立って、生徒達が独自に考えた思い思いの卒業式。輪になって座る学校もあると聞きます。荘厳さのかけらもない。ある学校では、国歌を歌わずに着席したままの生徒を教師が叱るかと思いきや、なんと言うと思いますか?「自分の意志をしっかり持つようになりましたね。」ですよ・・・。「安心して送り出せます。」と・・・。

 教育委員会が、卒業式に「日の丸・君が代」を実施していない学校に対して「国旗掲揚・国歌斉唱」の職務命令を発したところ、某県の高等学校教職員組合は「卒業式をはじめとする学校行事は、生徒の自主性や自治の力を育て、人格の完成を目指す大事な教育の場です。教育の場に職務命令を持ち込むことは教育の自殺行為です。」と反論しました。また、同組合は、「県教委は一刻も早く職務命令を撤回し、学校現場での民主的な議論を保障すべきです。そして生徒が主役の卒業式を作るためのそれぞれの学校の取り組みを尊重することを求めます。」とも言いました。民主的とはいったい・・・。こういう学校が生徒会主体の卒業式に人気歌手を呼んだりして、大いに盛り上がった挙げ句教師たちは「先生ありがとう!」などと言われて、勘違いも甚だしい充実感に浸るわけです。世も末です。

 私が言いたいのは、そもそも日本の国歌である君が代を歌うか否か、あるいは日本の国旗である日の丸を掲揚するか否か、というのがこれほど問題になり、国旗国歌法などというものが発布されるということ自体に強い違和感を抱かずにはいられない、ということであります。本来国歌を歌うということ、そして国旗を掲げるということは義務ではなく、「権利」であるはず。世界の何処の国だってそうです。自国の国旗に忠誠を尽くしたくても他国の旗が翻っている国さえあるっていうのに。それを強制するな、だの歌わない権利があるだの、一体日本人はとこまで自分を見失っているのでしょうか。

 「子供に大人の価値観を押し付けるな。子供の個性を尊重し、人権を守れ。民主主義とは自分で決める権利を持つこと。だから卒業式も生徒がやりたいようにやる。生徒が国歌なんて歌いたくない、と言うなら歌う必要はない・・・。」そんなものは断じて教育ではありません。それはつまり、「掃除やりたくない。」じゃあやらなくていいよ、ということです。「今日は疲れてるから挨拶したくない。」そうだよね、疲れていたら仕方ないよね、しなくていいよ、ということ。「電車の席が空いてないから地べたに座りたい。誰にも迷惑掛けてないからいいでしょ。」ああ、いいんじゃない、ということです。どれも生徒が自分で決めたことですから。

 そういう考えの人はどうも「義務」と「権利」に対する感覚がおかしくなっていると思うのです。

 誤解を恐れずに言えば、ある意味、大人が子供に価値観を押し付けるのは「義務」であります。どの国だってそうやって伝統を守ってきているのです。このことに異を唱えることは今日の日本を作ってきた先人達への冒涜の他何ものでもありません。まだ「人間こうあるべきだ」「日本人とはこういうものだ」ということをわかっていない子供達に我々大人は正しいことは正しい、間違っていることは間違っている、と教えてやらねばならないのです。子供に遠慮したり、必要なときに叱ることのできない親や教師はこの義務に気付いていない。そして社会的常識や価値観というのは紛れもなく国単位のものです。それはその国の言語や文化、慣習などから生まれるものだからです。現代社会は、西洋やアジア諸国の文化や言語が我が国に入り乱れ、混沌としている状態なので、日本人として持って然るべき常識が失われつつありますが、例えば我々日本人が子供達にアメリカ人の価値観を植え付けたって仕方がないはずです。小学校での英語教育などというのはまさにその類のもので、つまり「おはようございます。」もまともに言えない子供に “Good morning!”を教えてしまう、あるいはお辞儀もできない子供に握手を先に教えてしまうといった状況が生じてくるわけです。そんなことを続けていたら、ますます敬語は廃れ、目上の人を敬う心も消え、教室から教壇はなくなり「誰もが平等」、先生との挨拶も片手を挙げて「ハーイ!」というのりになってしまいます。だから、我々は日本人としての価値観とは何かを子供達に伝えていくべきなのです。その中で、当然反発もあるでしょう。それでいいのだと思います。反発して模索し成長するのが反抗期なのですから。ですから、そうした義務が大人にある以上「大人が子供に価値観を押し付ける権利があるのか。」という議論の発想自体がそもそもおかしいのです。

 校歌斉唱、国旗掲揚に異を唱える罪深き反日教師たちに、一刻も早く、子供たちに日本人としての常識をもって堂々と叱ることのできる大人が少ないから我が日本は低迷しているのだ、ということに気付いて欲しいものです。

2006.09.30 Saturday 01:15 | comments(0) | trackbacks(0) | 憂國・教育 | 
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