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2008.02.25 Monday  | - | - | - | 

乃木希典の武士道精神

司馬遼太郎の「坂の上の雲」は、日露戦争の旅順要塞攻撃において未曾有の戦死者を出したとして、陸軍司令官乃木希典を無能な愚将と評価し、世間に広く定着させてしまいました。

 しかし、なぜ陸軍の旅順対策はかくも遅れてしまったのか。実のところは、乃木軍司令官は旅順攻略から奉天会戦に至るまで、「大砲と弾がなければ戦はできない」ということを大本営や海軍に訴え続けていました。ところが海軍は、旅順港は自分達の縄張りだとして陸軍の関与を断っていたという見方があります。そのため陸軍は旅順に対する調査をしていませんでした。そもそも海軍の考えは、「旅順港を閉鎖して、艦隊を封じ込めばそれで済む。」という甘いものでした。しかし、蓋を開けてみれば旅順要塞は難攻不落の近代要塞。海軍は3回にわたる旅順港封鎖作戦を実行しましたが、いずれも失敗。万策尽き果ててはじめて、陸軍の出番となったのです。乃木大将は旅順が我が国の勝利の明暗を分ける要塞であるのにもかかわらず、その構造を知る由もなく、一体攻略するまでにどのくらいの兵力を要するのかなど分からぬまま赴くことになったのです。203高地攻撃においても、大本営や海軍の要請になかなか応じることができなかったのは、大砲および弾の不足ということが理由に挙げられます。

 ところが、司馬史観では、203高地を奪取すれば簡単に旅順を攻略できるのに、乃木大将はそのことに気付かずぐずぐずしていたために多くの兵士を失ってしまった、と単純に切り捨ててしまいます。ちなみに乃木大将自身、この203高地攻撃中に二人の息子を戦死させています。

 まあ、乃木大将が不器用な人であったことは否めないのかもしれませんが、それでもなお明治天皇に愛され、多くの人に慕われてきたことには理由があります。明治天皇は乃木大将の良き理解者であり、乃木希典の名前をもっとも印象深い人物として挙げ続けました。また、乃木大将を学習院の院長に任命し、皇孫の教育を委ねました。

 乃木希典の人物像というと、近衛秀麿(文麿の弟)は「僕はひとつの目的のある仕事に、これほどの熱意と真剣さをそそいだ人物像を見たことがない」(風雪夜話)と述べています。また、「前後にこんなに自愛にみちた『人柄』に接したことはなかったことを断言できる」と。また、かつて読売新聞に載った乃木の評には「鉄砲玉の怖くない人、部下を愛する人、清廉潔白の人、古名将の風格のある人、日露開戦せば真先に引張りだしたき人なり」とあったそうです。福田和也氏は「あるべき軍人の徳目と言う理念を、そのまま生身の人間において実現するという乃木の努力は、まさしく非人間的なものだった。あらゆる世俗的欲望を断ち、生活を切り詰め、稗飯を食い、親子の情すら私情として廃する、乃木の禁欲は求道者のものであって、常人が出来ることではないし、他人に強制すべきものでもないだろう。」(乃木希典)と乃木のストイシズムについて述べています。

 有名な話ですが、旅順陥落後の水師営会見の際、乃木大将は昨日まで敵であったロシアのステッセル将軍へ食料や酒を届け、両軍の兵士達は互いを労わり、健闘を讃えあったといいます。乃木大将は日記に「昼ヲ共ニ食シ」たと書いています。このとき海外の報道員が写真撮影を申し出たのですが、乃木大将は「後世までロシアの将軍の恥を残すようなことは日本の武士道が許さない」と拒否しましたが、「友人として同列に並んだところならよい」と答え、たくさんの写真を要求した報道員に対し、一枚だけ撮影を許しました。しかも普通ではありえないのですが、乃木大将はステッセル将軍を立派な将軍と写るように配慮し、ステッセル以下ロシアの将校は軍装に勲章を付け、帯剣しています。ふたりは心から握手を交わしました。ステッセル将軍が、乃木大将が二人の息子を失ったことに同情すると、「息子達はサムライとして名誉の戦死に喜んでいるはずです」と答え、ステッセルは日本の将兵の勇敢さに驚いたといいます。会見の終わりにステッセル将軍から、乃木大将に愛馬の白馬が贈られました。

 このことは世界にビッグニュースとして伝えられ、日本の武士道精神が世界に広く知れわたりました。

 実は、203高地攻撃で二人の息子を亡くした乃木大将はその後狂ったように戦線に出たがり死に場所を求め幕僚達を困らせた、という話もあります。

 凱旋の日、明治天皇に対し「大勢の陛下の赤子を失った罪を死で償いたい」と涙を流しながら伝えましたが、天皇は「朕が生きているうちは死んではならん」と告げました。そして天皇は息子を失った乃木に、たくさんの子らを委ねて学習院院長に任命したのでした。率先垂範する教師としての乃木大将の熱血ぶりも大変なものだったそうです。生徒ひとりひとりを大切にし、より多く生徒と接するために寮に住みつき、剣道、水泳、遠足と常に生徒と共に行動しました。赤坂の自宅へは月に一度か二度しか帰らなかったそうです。

 また、そうした中、乃木大将は戦死した兵士達の遺族を慰問して回りました。一軒一軒頭を下げてまわったそうです。遺族の方々は乃木大将の苦しみ悲しみを自分達の共感をもって受け止めたことでしょう。

 大正元年9月13日、明治天皇御大葬の御羽車が皇居を出発する合図の号砲と共に乃木大将は切腹により殉死しました。妻静子も胸を刺して自殺しました。乃木大将は最後まで天皇に忠実な武士道精神を貫いたのであります。後に乃木神社が建立され、乃木大将は今でも多くの日本人の心の支柱として祀られています。

 大東亜戦争時、乃木神社周辺だけ空襲に遭わず焼け残りました。それは、連合軍総司令官マッカーサーの指令によるものです。彼の父は、日露戦争時に従軍武官として乃木大将の第三軍のもとにおり、乃木大将を最高の武人として敬服し、息子にそれを伝えていたのでした。GHQ占領中も、常にMPが神社の周りを警備に当たっていたといいます。

 乃木神社には今もマッカーサーの植えたハナミズキが大きく育っています。

 乃木希典。私の最も尊敬する人の一人であります。
2006.10.01 Sunday 02:44 | comments(4) | trackbacks(0) | 武士道 | 

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2008.02.25 Monday 02:44 | - | - | - | 
石崎 健次 (2006/12/08 8:56 AM)
これからも日本の心、魂、を世に伝え下さい。
ありがとうございます・・・
千代紙 (2006/12/11 7:23 PM)
初めて書かせていただきます。
乃木将軍は、ロシア側に一斉攻撃を開始する前に、わざわざ「これから一斉攻撃をするから民間人を避難させるように」と通達されたそうですね。

日本の職業軍人は、かくも崇高な武士道精神があったことを、今こそ後世に伝えていかなければならないと思います。

このブログに出会えたことに感謝しています。

カルマ (2006/12/12 1:00 AM)
 石崎様、千代紙様、コメントありがとうございました。乃木将軍の敵陣への通達、初めてお聞きしました。これからも勉強してまいります。よろしくお願いいたします。
稲垣 一彦 (2013/07/28 3:56 PM)
初めまして、稲垣一彦(73歳)と申します。私の父親は芸名・林寛(はやし・ひろし)本名:稲垣三郎(1905-1971)と申します。新東宝『明治天皇と日露大戦争』(1957年)で乃木将軍役で出演させて頂きました。その後の作品『天皇・皇后と日清戦争』(1958年)、『明治大帝と乃木将軍』(1959年)にも乃木さん役を演じさせて頂きました。私の高校時代でしたが、カルマ様ブログ記述の通りの乃木さん役を演じるに苦労している姿を思い出しました。晩年は乃木さんの心境でいたような気がします。もっと早くブログに気づきべきでしたが、乃木希典についてよく知ることができました。ありがとうございました。感謝。