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2008.02.25 Monday  | - | - | - | 

脱・「日本を滅ぼす英語教育」

 修身、道徳、宗教教育、いずれの実現も難しい我が国の学校教育を尻目に、英語教育はなぜか恐るべき猛威を振るっている。

 開国以来日本は、「脱亜入欧」という言葉があるように欧米列強に追いつけ追い越せと、海の向うの文化、優れた技術、社会制度、学問などを必死になって取り入れ、我が国の独立を死守しようとした。欧米の書物から学ぶために英語の読み書きに勤しんだ。当時の日本人にとっては、英語は欧米列強と肩を並べるために必要不可欠なものだったのだ。異国の文化を取り入れる。英語はその手段として日本人に利用された。鈴木孝夫氏は「日本・日本語・日本人」の中でこう述べている。

 「明治初期の英学の実態とは何かを一言で言えば、それは海外からもたらされる洋書あるいは原書と呼ばれた英語の書物を解読して、そこに書いてある日本にはない先進国イギリスのもつ高度な技術や学問知識を学び、更には広く西洋一般の歴史、社会、法律、経済、哲学や文学なども知識までも、それらを可能な限り日本に取り入れて、日本を改造するための知的な作業であった。」(「日本・日本語・日本人」大野晋・森本哲郎・鈴木孝夫共著)

 欧米に追いつき、世界を動かす経済大国、技術大国となった今の日本において、我々日本人は何のために英語を学習しているのか。年齢や立場によって人それぞれ目的はあろうが、例えば中央教育審議会をはじめ小学校英語肯定論者は、往々にして早期英語教育を「国際理解教育の一貫」と位置づけたがる。しかし実際やっていることはネイティブスピーカー至上主義に基づいた「どれだけ英米人のしゃべり方、身振り手振り、雰囲気をうまく真似できるか」というお稽古のようなものである。英会話学校における学習(?)もまさにこのお稽古に他ならない。その証拠に、英会話学校のインストラクターのほとんどは英米出身の白人が占めている。

 明治の日本が、欧米の文化を取り入れるために英語を学んだように、言うまでもなく言葉と文化は密接な関係にある。日本独自の文化は日本語なくして形成されることはありえない。日本の文化・伝統を正しく後世に伝えていくためには、いつの時代にもきちっとした国語教育が必要である。ところが、我々日本人は世にも珍しい「自国の言葉を捨てたがる民族」である。英語の国語化を提唱した森有礼、日本語を不完全な言語とし、日本語廃止・フランス語採用論という暴論を吐いた文豪・志賀直哉もさることながら、街にあふれる横文字、ありとあらゆる品物につけられた外国語の商品名を見ればそれは明らかだ。多くの日本人にとって、日本語は「ダサく」て、英語やその他の外国語は「カッコいい」のである。しかし、危険なことに、外国語を取り入れれば取り入れるほど、それに付随する文化までもが日本に入り込んでくることになる。現在小学校にまで侵蝕しつつあるネイティブ至上主義の英語教育は、言語と文化間の密接な関係が故に、英米の文化をしっかりと連れて来た。教育内容が読み書きよりも会話中心になればなるほど、あるいは教員にネイティブスピーカーが増えれば増えるほど、「アメリカン」な、あるいは「ブリティッシュ」なセンスを身につける得体の知れない似非日本人を増産するようになってしまった。もはや我が国は、英語という言語に支配された植民地である。

 英語教育に携わる人間ほど、英語を売り物にしているだけにこのようなことに気付かない。というより、英語教育者がすでに似非日本人であることが少なくない。なかんずく英語教育=国際理解教育と考えている英語教員は曲者であることが多いように思う。と言うのは、国際理解教育は「価値観の多様化」というキーワードに結び付けられやすい。つまり、この手の英語教員の考え方に多く見られるのは、「日本人の価値観に固執してはいけない。世界には様々な民族がいて、多種多様の価値観や文化がある。日本人だから、何人だから、という線引きは要らない。みんな同じ人間。我々は地球市民じゃないか。」というものである。そのような考えの人にとっては、ネイティブ至上主義の英語教育が日本の社会にとっていかに恐ろしいものかなどということは分かるはずもない。そして、その成れの果てが、以下のような英語教師の声である。

 「英語の教科書を開くと、そこにはいろいろな文化・いろいろな人々・いろいろな価値観がぎっしり詰まっています。違う価値観を持つものに対して偏見を持つな!と訴えている教材も少なくありません。そんなことを教えながら、なぜ何から何まで同じ格好をするよう指導しなければならないのか・・・・・・。」(寺島隆吉著:「英語にとって教師とは何か?」)

 この言葉は寺島隆吉氏の著書に紹介されている、服装、化粧、ピアスなどの生徒指導に悩む若い女性教員のものである。ちなみに著者の寺島氏は、「多様な価値観こそ英語教育の要」と言ってのける人物で、当然この女性教員の言葉に対しては好意的だ。服装は個人の「思想・表現の自由」のひとつであり、職場でもネクタイをする気にはなれない、と言っている。寺島氏のこの著書は、私が今までに読んだ英語教育関係の書物の中で最悪書のひとつである。彼自身の生徒の服装指導に関する言葉をいくつか紹介すると、

「『どんな服装がよくて、どんな服装が悪いか』は、これといってはっきりした根拠が全くない」

「例えば、一般に女性の服装だと思われているセーラー服は、実はアメリカ水兵の服装と同じであるし、スカートを男性がはいている民族は世界にいくらでもある。」

「アメリカの中学・高校を訪問したことがある教師なら誰でも知っていることだが、服装は全く自由だし、化粧をしてピアスをしている生徒がいても、それが当然のごとく受け入れられている。日本人だって、髪が白くなって格好悪いと思えば、それを黒く染める人は少なくない。」

「服装の取り締まりは、教師と生徒の亀裂を深め、授業不成立の原因をつくるという点で、百害あって一利もない。したがって当面、服装の取り締りからは一歩退くことである。」

「服装問題は『正しいかどうか』ではなく、『当人がその姿を気に入っているか』、当人が気に入っているとしても、『それを見た相手が、その姿を似合っていると思うか』という問題にすぎない」

と、このようなことを大真面目に語っているのである。嘆かわしい今の高校生の倫理観などものともせず、むしろピアスをすること、髪を染めることを「自ら表現方法を選んで決定できた」ということで「良い傾向」であると言いたげだ。日本をダメにする英語教育とはまさにこのことである。

 国際理解を深めるための英語教育から多様な価値観を学び、その結果日本人の価値観を捨て、地球市民なるものを目指した先に何があるのか。結局は、多様な価値観を尊重するために身につけたはずの英語が、少数民族の価値観やアイデンティティを抹消し、世界の言語の英語単一化を助長し、英語文化の世界支配に一役買っているということに他ならないのである。

 私はいっそのこと「修身」の教科書から、現代の日本社会においても通用する貴重な徳目を抜粋し、英訳して英語教材として使えないだろうかと考えている。必要以上の英語文化の侵入防止策と同時に、日本人教育の一助にもなる。さらに、「日本人の英語話者」として、真の国際交流ができる人材の育成にもつながるのではないか。このような発想は、相当の非難を浴びることは請け合いだが。


★「修身」のことを知ろう!
「修身」全資料集成
「修身」全資料集成
宮坂 宥洪, 渡部 昇一
2006.10.01 Sunday 10:30 | comments(2) | trackbacks(0) | 英語・英語教育 | 

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2008.02.25 Monday 10:30 | - | - | - | 
okasan (2006/10/08 8:13 PM)
公立中学2年生の娘をもつ母親です。

英語の授業は週3時間しかありません。
授業では、英文を直訳せずに意訳するので、主語、述語、目的語の区別があいまいなまま中2になってしまい、今、親子で必死にやり直しをしているところです。それでなくとも、英米文化礼賛の教科書に困惑しているのに、ゆとり教育の弊害ももろに受け、本当に困っています。
 修身の徳目を英訳するのはとてもよいアイディアだと思います。中学校では道徳の授業はあまり行われていないようで、日本人としての生き方の指導の場がない状態です。国語、英語はぜひ、日本の子どもが自国の文化に誇りを持てるような教科書が待たれます。
新しい英語の教科書を作る動きがあればよいです。
もちろん、修身の英訳本は全国で静かなブームになると思います。ぜひお願いします。
カルマ (2006/10/09 3:32 AM)
コメントありがとうございました。学校英語は様々な点において問題視していかなければなりませんね。