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2008.02.25 Monday  | - | - | - | 

サムライ・三島由紀夫

 「益荒男が手挟む太刀の鞘鳴りに幾年耐えて今日の初霜」

 「散るを厭う世にも人にも先駆けて散るこそ花と吹く小夜嵐」

 この二句は三島由紀夫の辞世の句です。1970年11月25日三島由紀夫は森田必勝ら「楯の会」の会員と共に市ヶ谷の自衛隊に乱入し、益田兼利総監を人質にとって、バルコニーから約1000人の自衛隊員に向かって檄をとばしたのち、古式に則り切腹をしました。森田必勝が介錯。享年45。そのすぐ後に森田も自刃して果てました。
 三島の「檄」の中にこのような一節があります。

 「われわれは戦後の日本が経済的繁栄にうつつを抜かし、国の大本を忘れ、国民精神を失い、本を正さずして末に走り、その場しのぎと偽善に陥り、自らの魂の空白状態へ落ち込んでゆくのを見た。政治は矛盾の糊塗、自己の保身、権力慾、偽善にのみ捧げられ、国家百年の大計は外国に委ね、敗戦の汚辱は払拭されずにただごまかされ、日本人自ら日本の歴史と伝統を瀆してゆくのを歯噛みをしながら見ていなくてはならなかった」
 そして自衛隊を非難して、「生命尊重のみで、魂は死んでもよいのか。生命以上の価値なくして何の軍隊だ。今こそわれわれは生命尊重以上の価値の所在を諸君の目に見せてやる。それは自由でも民主主義でもない。日本だ。われわれの愛する歴史と伝統の国、日本だ」

 三島の求めていたものは、簡単に言うと「憲法改正」でした。三島は戦後の社会に幻滅し、社会をよい方向に導くはずの政治に幻滅しはて、最後の希望を自衛隊に託したのですが聞き入れられず、憂国の情を「死」をもって世間に伝えようとしたのでした。
 三島のとった行動に関しては当然の如く賛否両論があるでしょう。しかし、今からわずか36年ほど前にそこまで日本の戦後社会のあり方を憂い、その思いの丈を国民に届けたい一心で諫死を遂げた男がいたということを、この平和ボケも甚だしい今の日本に生きる我々は忘れてはいけません。

 先日読んだ三島由紀夫の「若きサムライのために」は平和ボケの日本に対する警鐘を鳴らすメッセージの書でありました。その中の「羞恥心について」という章に面白いことが書いてありました。日本の男性は昨今羞恥心を失いつつあるという書き出しで、少し微笑ましいエピソードでもあるのですが、三島自身もそれを実感したことがあると書いています。それは、奥さんの最初のお産のときで、三島はいつ生まれるのかとヒヤヒヤしていたわけですが、とうとう無事に出産が終わると急いで初孫の誕生を父親に伝えようと公衆電話から電話したそうです。ところが何回かけても繋がらない。実は10円玉を入れ忘れていたという、そのくらい興奮していたのでした。ところが、お金を入れてやっと通じた電話越しの父親の思いがけない不機嫌な声に三島は驚かされるのでした。

 「あとでわかったことだが、父は明治生まれの男らしい、実に古風な羞恥心を持っていた。自分の嫁の出産に息子が病院に行くのさえ、恥ずかしいことであった。病院からあたふたした声で電話をかけてくるのは、もっと恥ずかしいことであった。妻のお産のときには、日本の男はおなかの中で心配しながら、友だちと外で飲んで歩くか、あるいはそしらぬ顔をしているべきであった。それは女に対する軽蔑とは違って、むしろ純女性的領域に対するおそれと、おののきと、遠慮と、反抗から生まれた男のテレかくしの態度であったと思われる。明治の男は、女と肩を並べて歩くのをいさぎよしとしなかった。世間からでれでれしていると思われないために、女と必ず離れて歩き、結婚しても、妻と並んで歩くのを恥ずかしがる男性はいくらもいた。」(P.60−61)

 ただ純粋に「いいなあ。日本男児、かっこいいなあ。」と思ってしまいました。と同時に「我々現代人が今も正しく守っている日本人としての美徳って果たしてどれほどあるんだろうか?」と思ってしまいました。

 三島と死を共にした森田必勝もまた(大変恐縮ですが)立派な若者でした。鈴木邦男氏も著書に書いていますが、当時早稲田大学で右翼活動をしていた学生達の間では、「俺は国のためならいつでも死ねる!」「おまえはどうだ。」などという会話がよく聞かれ、時にはそれが元でけんかになったりもしたそうです。ところが森田はひとり、そのような論争には決して加わりませんでした。「愛国心は大声で口にするものではない。」という思いからだそうです。やがて、そんな愛国学生たちはみな大学を卒業し、社会に出て、いつしか熱も冷め、運動からも足を洗いました。静かに我が国のことを思っていた森田ただ一人が自刃に果てています。

 この森田の生き様、死に様に対しても、誰がなんと言おうとも、純粋に「なんてかっこいいんだ。」と思ってしまうのです。

若きサムライのために
若きサムライのために
三島 由紀夫
2006.10.01 Sunday 10:18 | comments(3) | trackbacks(0) | 武士道 | 

乃木希典の武士道精神

司馬遼太郎の「坂の上の雲」は、日露戦争の旅順要塞攻撃において未曾有の戦死者を出したとして、陸軍司令官乃木希典を無能な愚将と評価し、世間に広く定着させてしまいました。

 しかし、なぜ陸軍の旅順対策はかくも遅れてしまったのか。実のところは、乃木軍司令官は旅順攻略から奉天会戦に至るまで、「大砲と弾がなければ戦はできない」ということを大本営や海軍に訴え続けていました。ところが海軍は、旅順港は自分達の縄張りだとして陸軍の関与を断っていたという見方があります。そのため陸軍は旅順に対する調査をしていませんでした。そもそも海軍の考えは、「旅順港を閉鎖して、艦隊を封じ込めばそれで済む。」という甘いものでした。しかし、蓋を開けてみれば旅順要塞は難攻不落の近代要塞。海軍は3回にわたる旅順港封鎖作戦を実行しましたが、いずれも失敗。万策尽き果ててはじめて、陸軍の出番となったのです。乃木大将は旅順が我が国の勝利の明暗を分ける要塞であるのにもかかわらず、その構造を知る由もなく、一体攻略するまでにどのくらいの兵力を要するのかなど分からぬまま赴くことになったのです。203高地攻撃においても、大本営や海軍の要請になかなか応じることができなかったのは、大砲および弾の不足ということが理由に挙げられます。

 ところが、司馬史観では、203高地を奪取すれば簡単に旅順を攻略できるのに、乃木大将はそのことに気付かずぐずぐずしていたために多くの兵士を失ってしまった、と単純に切り捨ててしまいます。ちなみに乃木大将自身、この203高地攻撃中に二人の息子を戦死させています。

 まあ、乃木大将が不器用な人であったことは否めないのかもしれませんが、それでもなお明治天皇に愛され、多くの人に慕われてきたことには理由があります。明治天皇は乃木大将の良き理解者であり、乃木希典の名前をもっとも印象深い人物として挙げ続けました。また、乃木大将を学習院の院長に任命し、皇孫の教育を委ねました。

 乃木希典の人物像というと、近衛秀麿(文麿の弟)は「僕はひとつの目的のある仕事に、これほどの熱意と真剣さをそそいだ人物像を見たことがない」(風雪夜話)と述べています。また、「前後にこんなに自愛にみちた『人柄』に接したことはなかったことを断言できる」と。また、かつて読売新聞に載った乃木の評には「鉄砲玉の怖くない人、部下を愛する人、清廉潔白の人、古名将の風格のある人、日露開戦せば真先に引張りだしたき人なり」とあったそうです。福田和也氏は「あるべき軍人の徳目と言う理念を、そのまま生身の人間において実現するという乃木の努力は、まさしく非人間的なものだった。あらゆる世俗的欲望を断ち、生活を切り詰め、稗飯を食い、親子の情すら私情として廃する、乃木の禁欲は求道者のものであって、常人が出来ることではないし、他人に強制すべきものでもないだろう。」(乃木希典)と乃木のストイシズムについて述べています。

 有名な話ですが、旅順陥落後の水師営会見の際、乃木大将は昨日まで敵であったロシアのステッセル将軍へ食料や酒を届け、両軍の兵士達は互いを労わり、健闘を讃えあったといいます。乃木大将は日記に「昼ヲ共ニ食シ」たと書いています。このとき海外の報道員が写真撮影を申し出たのですが、乃木大将は「後世までロシアの将軍の恥を残すようなことは日本の武士道が許さない」と拒否しましたが、「友人として同列に並んだところならよい」と答え、たくさんの写真を要求した報道員に対し、一枚だけ撮影を許しました。しかも普通ではありえないのですが、乃木大将はステッセル将軍を立派な将軍と写るように配慮し、ステッセル以下ロシアの将校は軍装に勲章を付け、帯剣しています。ふたりは心から握手を交わしました。ステッセル将軍が、乃木大将が二人の息子を失ったことに同情すると、「息子達はサムライとして名誉の戦死に喜んでいるはずです」と答え、ステッセルは日本の将兵の勇敢さに驚いたといいます。会見の終わりにステッセル将軍から、乃木大将に愛馬の白馬が贈られました。

 このことは世界にビッグニュースとして伝えられ、日本の武士道精神が世界に広く知れわたりました。

 実は、203高地攻撃で二人の息子を亡くした乃木大将はその後狂ったように戦線に出たがり死に場所を求め幕僚達を困らせた、という話もあります。

 凱旋の日、明治天皇に対し「大勢の陛下の赤子を失った罪を死で償いたい」と涙を流しながら伝えましたが、天皇は「朕が生きているうちは死んではならん」と告げました。そして天皇は息子を失った乃木に、たくさんの子らを委ねて学習院院長に任命したのでした。率先垂範する教師としての乃木大将の熱血ぶりも大変なものだったそうです。生徒ひとりひとりを大切にし、より多く生徒と接するために寮に住みつき、剣道、水泳、遠足と常に生徒と共に行動しました。赤坂の自宅へは月に一度か二度しか帰らなかったそうです。

 また、そうした中、乃木大将は戦死した兵士達の遺族を慰問して回りました。一軒一軒頭を下げてまわったそうです。遺族の方々は乃木大将の苦しみ悲しみを自分達の共感をもって受け止めたことでしょう。

 大正元年9月13日、明治天皇御大葬の御羽車が皇居を出発する合図の号砲と共に乃木大将は切腹により殉死しました。妻静子も胸を刺して自殺しました。乃木大将は最後まで天皇に忠実な武士道精神を貫いたのであります。後に乃木神社が建立され、乃木大将は今でも多くの日本人の心の支柱として祀られています。

 大東亜戦争時、乃木神社周辺だけ空襲に遭わず焼け残りました。それは、連合軍総司令官マッカーサーの指令によるものです。彼の父は、日露戦争時に従軍武官として乃木大将の第三軍のもとにおり、乃木大将を最高の武人として敬服し、息子にそれを伝えていたのでした。GHQ占領中も、常にMPが神社の周りを警備に当たっていたといいます。

 乃木神社には今もマッカーサーの植えたハナミズキが大きく育っています。

 乃木希典。私の最も尊敬する人の一人であります。
2006.10.01 Sunday 02:44 | comments(4) | trackbacks(0) | 武士道 | 
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