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2008.02.25 Monday  | - | - | - | 

留学生の入れ知恵

 先日の英語の授業中のこと。「形容詞的な分詞の後置修飾」といった単元を学習していた。例えば “The girl standing by the window is my sister.”(窓のそばに立っている女の子は私の妹です)のような文である。教科書の中に例文がいくつか載っているのだが、その中に “The seats assigned to us were quite noisy.”(私たちに割り当てられた席はかなりうるさかった)という文があった。生徒に音読でリピートをさせていたのだが、そこで、思わぬまったが入った。「コノイイカタハ、シマセン。」 例の留学生のリサ(仮名)である。一瞬教室が異様な雰囲気に包まれだが、次の瞬間「おーっ」という歓声にも似た生徒たちのリアクション。教師としては面子丸つぶれである。「なんだよ、この教科書まちがってるの?」、「リサすごーい」、「さすがネイティブ」などさまざまな言葉が飛び交う。そこで、リサにどこがおかしいのかと理由を聞くと、“a seat is noisy” つまり「席がうるさい」というのはありえない、ということであった。うるさいのは周りの席に座っている人であって座席そのものではないと言うのである。でも待てよ。それは言い方であって、日本語だって席の周りの人たちがうるさいときに「席がうるさい」と表現できるように、英語だってOKなのではないか。では例えば、“This room is noisy.”(この部屋はうるさい)とは言えないのか。部屋にいる人がうるさいのだという理由で、「うるさい部屋」は“the noisy room”ではだめなのか。その逆の“the quiet room”(静かな部屋)も間違っているのか。そうは思えなかったので、授業中は「なるほど。」といいつつも、「じゃあ、あとで調べておくよ。」と言って終わった。
 その後学校にいるネイティブスピーカーの教員3人に尋ねたところ、やはりこの例文はおかしくない、という結論に至った。3人とも単純に日本語で「席がうるさい」というように“The seats are noisy.”という表現も使えるということだった。何冊かの文法書にも照らし合わせたのでこの情報は確実なものと思われる。「じゃあ、なぜリサは間違いだと言ったのだろう」と尋ねると、そのネイティブ教員たち曰く、“Because she is too young.”(彼女はまだ若いから)ということであった。なるほど私の思ったとおりだ。
 例えば日本の高校生がアメリカで日本語の表現の正誤をすべて正しく教えられるかといえば、そうとう優秀な生徒でない限りまず無理だろう。それと同じことであるはずなのだが、うちの生徒たちは「一アメリカ出身少女(17歳)」の言うことを微塵も疑わず鵜呑みにしたわけだ。「ネイティブが言っているのだから間違いない」というのである。この件をうけて、「もっと生きた英語を学びたい。」という生徒の発言もあった。彼らの言う生きた英語とはどのようなものを指すのか。学校で教えている英語は「死んだ英語」だということか。
 次の日の授業では、さらなるリサの入れ知恵が炸裂した。リサのうしろの席の生徒はbicycle(自転車)という単語が英作文中に出て来ると、「先生、リサがbicycleなんて実際言わないって言ってますよ。」というのだ。中1のときから自転車=bicycleと信じて疑わなかった生徒たちにとっては驚愕の事実である。私が「ああ、bikeって言うってこと?」と聞くとその生徒はうれしそうにそうだと言った。「そりゃ、自転車とチャリンコほどの違いだよ。」とだけ説明しておいたが、言いたいことは山ほどあった。しかし、リサがいる手前、「お前らは一人のアメリカ人高校生が言った事をすべて鵜呑みにするのか。自分が日本語についてどれほどの自信があるか考えてみれば、いくらネイティブとは言え高校生の英語力がどれほどのものか察しはつくはずだ。たまたまリサは自転車ではなくチャリンコという表現を使った。では英語としてチャリンコの正式名称である自転車という単語を覚える必要はないのか。そんなはずはないだろう。」とはさすがに言えなかったのである。
 このことがあってからというものの、新しい表現を勉強するたびに「実際こんな言い方するんですか」と聞く生徒が出てきた。これでは、留学生が生徒たちの勉強の刺激になるどころか逆効果である。結局そういう生徒たちが一番知りたいと思っているのは、「くだけた英語」なのだ。同世代のアメリカ人と仲良く、かっこよく英語でコミュニケーションをとりたいのである。そのためにはむしろ堅苦しい表現は習うだけ無駄。邪魔者とうわけだ。習っただけについうっかりダサい表現を使ってしまっては格好悪い。最近よく見かける、内容の極めて薄い、くだけた表現を載せている英会話の教科書はいい教材なのかもしれない。生徒たちの言う 「生きた英語」とはすなわちそういうことだ。ちなみに、女子たちが逆の立場でリサに日本語を教えるときには、決まって「女子高生ことば」なのである。
2007.06.16 Saturday 17:25 | comments(9) | trackbacks(3) | 英語・英語教育 | 

アメリカ人留学生現る。

 今年度、私は高校2年生の担任をしている。昨年度以上に忙しい毎日を過ごしているわけだが、授業や部活やその他の校務に加えてもうひとつ、4月から3ヶ月間だけ引き受けた仕事がある。それは、アメリカからの留学生の面倒を私のクラスで見るということである。そのアメリカ人(白人)の生徒は短期留学で4月の初旬から日本にホームステイしている。3ヶ月間の滞在なので、6月末にはアメリカに帰ることになっている。アメリカ人にしてはめずらしいくらいおとなしい女の子で、むしろ元気なクラスの雰囲気になじむまでに少し時間がかかった。まだ私自身知り合って間もないのだが、とてもまじめな子であると思う。アメリカで3年間日本語を勉強していたというが、やはり授業内容理解や連絡事項の伝達ということになると難しいので、英語ができる担任がクラスに引き受けて面倒を見るということだったので、私が手をあげた次第だ。
 
 留学生が来校する直前の英語科の会議では、いかに彼女を手厚くもてなし、不自由ないように生活させてやるかということが話し合われた。留学生の窓口になっている先生からは「留学生を持つと何かと世話をしないといけないので本当に大変だけど頑張ってくださいね。寂しい思いをさせないようにいろいろ考えてやってください。」と言われた。私はこういう考えは留学生に対する日本人のよくない態度の表れであると思う。
 
 外人コンプレックスを持つ日本人は留学生でも何でも外国人はお客様だと考えてか、これでもかというくらい手厚くもてなす。考えてもみてほしい。留学生は自ら望んで異国の地に来るのだ。そして自ら望むからにはそれなりの目的があるはずであり、その目的とはたいていその国の言語や文化を一身にあびて学ぶためである。異国の地で自らを厳しい環境下に置き、右を向いても左を向いても異国人という状況の中で疎外感や孤独感を覚えつつ目標を達成してこそ留学の価値があるというものだ。つまり、必要以上に手厚くもてなすことは留学生にとってありがた迷惑のほか何ものでもないのである。親切にされたその瞬間は本人もありがたいと思うだろう。しかし、結果的にそれは留学生のためにならない。もちろん自分から友達を作ったり、積極的に人間関係を作ったりする過程で、さまざまな親切を受けるというのならば何の問題もない。そういう経験を経て帰国した際に「日本人はみな親切な国民だった。」と言ってくれるのであればこちらもうれしいではないか。しかし、はなから「異国の地で大変だろうから苦労をさせないようにいろいろやってあげましょう。」というのではこれから得ようとしている貴重な経験が台無しだ。
 
 私は2年間アメリカに留学をしていたので、最初の数ヶ月間の苦労は身にしみてわかる。だからこそその経験をしてもらいたいと思う。私と同時期に留学していた友人などは、バスの中で友達と日本語をしゃべっていたら隣に座っていたアメリカ人のオヤジに「だまれ!日本語をしゃべるんじゃねえ!」と言われたそうである。あるいはもっと露骨な人種差別を体験する人もたくさんいることだろう。日本に留学するアメリカ白人はそのような差別をされることはまずないわけで、それだけでもラッキーだと思わなくてはいけない。そしてアメリカ人をはじめ英語のネイティブスピーカーが普段経験することのない「自分の言葉が通じない」という、疎外感、孤独感を体験できること、つまりこの国では自分がマイノリティの人種であるという貴重な経験ができることをありがたく思うべきなのである。
 
 うちのクラスの生徒には彼女が来日する前に「このクラスに最初の3ヶ月だけ留学生が来るぞ。」と言ってあった。クラスはいっせいに「イエーイ!」と妙な盛り上がりを見せたわけであるが、この時点で我がクラスの生徒ほぼ全員が、留学生と言えば英語のネイティブスピーカー、アメリカ人またはイギリス人・・・と勝手に思っていただろう。ちょっとリアクションを確かめたかったので、どこの国でもよかったのだが思いつきで「国籍はミャンマーです・・・。」と言ってみた。予想通りのリアクション。総「ええーっっ!!?」である。「ウソです。アメリカ人です。」と言ったあと、もともと生徒に伝えようとしていたことを言った。「英語で話しかけるなよ。」ということ。英語の教師からまさかの忠告である。「欧米人を見るとすぐに英語で話しかけるのは日本人の悪い癖だ。ここは日本なんだから日本語で話しなさい。まずは日本語で話しかけて、それで相手がポカンとしたり、ワカリマセンということになったらそこで初めて英語を使ってあげなさい。」留学生がポカンとした日本語を生徒たちが英語で表現できるか、はなはだ疑問ではあったが、そう告げた。「だいたい日本に覚悟を決めて留学しに来るのに、英語でしゃべられたら逆に拍子抜けするよ。日本語を勉強しに来たんだから日本語をしゃべってくれ、と思うだろ、ふつう。みんなが意を決してアメリカに留学したとして、アメリカ人がへたくそな日本語でずっと話しかけてきたとしたら、ふざけるな!って思うでしょう。」とも言った。大体の生徒は納得したと思う。
 
 それにしてもおとなしい子で、最初のころはクラスの生徒が話しかけても、たいした反応もしなかったので、私もどうしたものかと思っていたのだが、最近は友達ともしゃべるようになったし、笑顔も多くなったのでいい傾向である。しかし、なんだかんだ言ってやはりいろいろ大変である。私自身も彼女を引き受けてから、ものすごく貴重な経験をさせてもらっている。もっとも、私がすんなり留学生を引き受けた理由のひとつは、大いに自分の勉強にもなるだろう、ということなのだが。

 また追って留学生に関する出来事を報告したいと思う。
2007.05.02 Wednesday 00:53 | comments(5) | trackbacks(1) | 英語・英語教育 | 

英語教材としての国旗の教育

 中学高校生用英語教科書「プログレス21」Book3のLesson7に “The Union Jack” という長文がある。イギリスの国旗の由来を説明した文章だ。日章旗は、その文中にわずかに比較の対象として出てくるだけである。他国の国旗について学ぶことは悪いことではない。しかし、日本の国旗の由来も説明できない状況にあって、英国の国旗についての学習をすることは本末転倒といわざるを得ないだろう。それは英米文化偏重の間違った英語教育というものではないか。          
 英語帝国主義を助長するこのような長文から得ることのできる内容的知識は、現在の日本人が必要としているそれでないことは明白である。我々日本人がいま必要としている英語教育とは、「英米をモデルとする英語文化至上主義的な英語教育」ではなく、「日本人としての誇りを取り戻し、日本の素晴らしさを世界に発信する英語教育」である。その観点からすると、やはり「日の丸についての説明を英語を使ってできるようになる」という学習目標が第一にくるべきであり、その次に「国際人として、よその国の旗に敬意を払う教育」が施されるべきである。その一環として英国の旗の由来が盛り込まれているのであれば十分納得のいく教材であるといえよう。
 今、この長文“The Union Jack”を高1の授業で扱っている。合間に余談で日の丸の話や日の丸に倣って作られたパラオ共和国の旗の話などをしている。私が授業中にしゃべったことをより詳しく文面に起こしたもので、単元の最後の授業で配ろうとしているプリントを以下に載せたいと思う(一部編集)。なお、前半はTOSS中学編著の「中学生に国民国家をこう教える」を参考にさせていただいている。


【日の丸について】

 Lesson7では長文“The Union Jack”を通して、イギリスの国旗「ユニオンジャック」の由来について勉強しました。他国の国旗に敬意を払うことは国際社会に生きる人間として当然のことです。しかし何よりもまず自国の国旗、すなわち「日の丸」についての知識を持つことが第一に必要なことだと思います。実際、外国に行くと他国の人たちの国旗に対する関心度は日本人の想像よりはるかに高いことがわかると思います。外国で「日本の国旗の由来は何?」と聞かれることも多々あります。そのときに「I don’t know.」では寂しいものです。質問した外国人は「こいつは何者だ」と思うことでしょう。
 では、日本の国旗はどこから来たのか。日の丸(正式には日章旗といいます)の大まかな意味というのはだいたい皆さんが察するとおりだと思います。すなわち「太陽を表している」ということ。人間は太陽がなければ生きられません。最近の研究では、「心臓には太陽電池があり、その電池が作り出す電気信号によって心臓が動いている」とも言われています。つまり太陽がないと人間が生きるうえで最も大切な心臓が動かないのです。日本人は2千年も前から感覚的にそのことに気付いていました。だからこそ、国の名前を「日の本」すなわち「日本」とし、自分たちの命は太陽が元になっているのだということの象徴としてきたのです。
 また、「おかあさん」とはもともと「おかかさま」という言葉でした。漢字で書くと「お日日様」です。「日」はもちろん太陽のことです。つまり、母親のことを「太陽のように大切な人」と表現したのです。生命の源である太陽を国の名前や母親の呼び方にしている国は世界で日本だけでしょう。
 国旗は国の顔とも言うべきものです。しかし現在の日本人には残念なことに国旗に対する意識が著しく欠如しています。1988年に行なわれたソウル五輪の陸上競技で米国選手が優勝し、星条旗が掲揚されたとき、スタジアムの観客の中で起立しなかったのは日本から卒業旅行に来ていた高校の生徒と先生だけで、韓国民や世界中からひんしゅくを買ったといいます。国際社会で活躍する日本人の行動がこのような有様でいいわけがありません。日の丸と軍国主義を結び付けて考えたがる人もいますが、国旗に敬意を払うことと戦争を美化することは全く別のことです。「自国の文化に誇りを持ち、他国を尊重すること。」それこそが真の国際人の姿ではないでしょうか。皆さんもこれから留学や、大人になってからの出張などで海外に行くことがあるでしょう。海外では、自国の文化や歴史に誇りを持たない人は尊敬されません。皆さんが知らないだけで、日本には素晴らしいところがたくさんあります。そのひとつとして、日の丸の由来はぜひ覚えておいてください。
                                         
【パラオの国旗について】

 日本の南に位置するパラオ共和国という国を知っていますか。グアムやサイパンにほど近く、ミクロネシアに点々と200あまりの美しい島々を有する国です。実はこの島、日本と深い関わりがあります。まずなんと言っても国旗が日本の日の丸によく似ていることです。下に国旗を載せておきました。水色地に黄色の丸という柄です。
 パラオの歴史を簡単に話すと、第一次世界大戦以前、この国はドイツの占領下にありました。第一次大戦でドイツに勝った日本は戦後、国際連盟からパラオを含むミクロネシア地域を委任統治することを求められました。日本はたくさんの移民(全盛期には2万5千人)をこの地に送り、日本人は産業、教育、文化の発展に大きな功績を残したのです。工場、病院、学校、道路などが次々とできて、パラオの街は近代化しました。
 第二次世界大戦(太平洋戦争)が始まると、パラオの首都コロールは日本海軍の重要な基地として作戦拠点となったので、米軍の攻撃対象となり、1944年にはペリリューの戦いなどで日米両軍に多くの戦死者が出ました。ここで特筆すべきは、民間人の犠牲者を出さないという心がけで死力を尽くした日本兵は、ペリリュー島の戦いでパラオ民間人に一人の死者も出さなかったことです。それは、日本と一緒に米軍と戦いたいという意志を持った島民たちがいても強制疎開させたほどの徹底ぶりでした。しかし、ペリリュー島は米軍の手に落ちました。日本軍玉砕後にペリリューに戻った島民は、島中に散乱する日本人の遺体を見て悲しみ、放置されていた日本兵の遺体を埋葬してくれたそうです。
 第二次世界大戦後、日本に変わって戦勝国アメリカがこの地域を占領しました。そして日本が築いた神社などは姿を消しました。しかし,多くのパラオ人は心の中で勤勉の精神を教えてくれた日本人を敬い,日本統治時代を懐かしんでいたのです。その証拠に当時からパラオ人には子供に日本人のような名前をつける人がたくさんいました。パラオの前大統領にもクニオ・ナカムラという人がいます。
 50年間にわたるアメリカの占領期を終え、1994年,パラオは独立しました。独立にあたり国旗を制定することになり,国民の間から一般公募した結果,日の丸に似た今のデザインに決まったのです。パラオ国旗の水色は海、丸は月を意味します。なぜ月なのか。パラオの繁栄は日本のおかげであるとして、「日本の太陽に照らされてパラオの月が輝いている」というのがその由来です。月が中心から少し左にズレているのは、あまりに似ていると日本に失礼だからということなのだそうです。パラオの人たちの慎み深さにこちらが恐縮してしまうほどです。
 現在パラオのペリリュー神社の碑には以下の文が記されています。
“Tourists from every country who visit this island should be told how courageous and patriotic were the Japanese soldiers who all died defending this island.“
「この島を訪れる、すべての国の旅人たちに伝えたい。此の島を死んで守った日本軍守備隊の勇気と祖国を思うその心を。」  

           

 
 日の丸の話をすると、生徒の反応は様々だが、こちらの予想以上に興味深く聞いている生徒も少なくない。それにしても、日本が世界に誇れることを語るとほとんどの生徒の目は一様に輝き始めるものである。いかに普段そういった自国の誇りを語り継ぐ教育がなされていないかを痛感する瞬間である。例えば全ての学校で、普段の歴史や国語の授業が常に日本の素晴らしさを感じさせるものであったなら、日本の若者は明らかによい方向に変わっていくのではないか。いまや国旗・国歌の教育をはじめ、日本の素晴らしさを若者に伝えることをタブー視している場合ではないはずである。




中学生に「国民国家」をこう教える
中学生に「国民国家」をこう教える
長野 藤夫,TOSS中学





2007.02.16 Friday 00:24 | comments(4) | trackbacks(14) | 英語・英語教育 | 

日本人にとって英語とは何か:2

 以下は、高1の生徒に配布した「日本人にとって英語とは何か」と題したプリントである。 

★「世界共通語 = ネイティブスピーカーの英語」であってはならない!

 授業でやったように、今や英語は「世界の言語」であることは間違いありません。それは世界中で英語の母国語話者とそうでない人がコミュニケーションをはかるとき、多くの場合英語が使われるという事実からも明らかです。それどころか、もっと決定的な証拠は、非英語国民の外国人同士(例えば日本人と中国人)がしゃべる際にお互いの言語を知らない場合、会話の媒体は普通「英語」であるということです。つまり、英語はネイティブスピーカーのいないところでさえも話されているのです。これはどういうことかと言うと、非英語国民がしゃべる英語は、英米人の文明・文化を育んできた土着の言語としての英語ではなく、英米人の手から完全に離れて一人歩きをしている「意思伝達の道具」としての英語にすぎないということです。

 ひと昔前は、英語は英米人をはじめとする英語国民の母語であり、日本人から見たら一外国語でした。しかし現在では、この英語が世界中に広まり、非英語国民の英語話者の人口がネイティブスピーカーの人口を上回るということが起きています。だからこそ「英語の国際化」ということが言われるわけです。いわば、今日の英語は世界中の民族が共有する財産です。しかし、日本では未だに英語と言えば英米(あるいはオーストラリア、ニュージーランド)の言語だという意識が強い。英会話の先生といえばネイティブスピーカー。英会話学校の講師のほとんどが英米出身の白人であることが何よりの証拠です。英語をやるなら英米の英語。「英語を習いたいからインド人を呼んで来よう。」とはならないわけです。同じ英語学習者としてインド人の英語などは大変勉強になるはずなのですが。

 では、なぜ「ネイティブスピーカーの英語」ではいけないのか。その前に言語の性質について少し話をします。言語というのはその国の文化や国民性と密接な関係があります。両者は切っても切り離せない仲です。例えば、日本人の性格や文化は日本語なくしては存在し得ません。日本語が私たちを日本人たらしめているのです。我々がもしスペイン語をしゃべっていたら、歌舞伎のような古典芸能は生まれていません。「おじぎをする」という習慣も存在しないでしょう。皆さんは、「思い」と「ことば」はどちらが先だと思いますか?頭の中で「思う」から言葉にできるのか、「ことば」があるから思うことができるのか。正解は後者です。言葉がなければ「ものを思う」ことができないのです。犬や猫には言葉がないので、「思考」がありません。そして動物には「文明」や「文化」はありません。なぜなら言葉がないからです。人間には言葉があり、ものを考えることができるので、文明が生まれ文化が発展しました。しかし文明・文化は使う言語によって多種多様です。どの民族もその国に生まれたからには、先代から連綿と受け継がれてきた自国の伝統・文化を責任を持って育み、次世代につなげていく義務があります。そして「伝統・文化を受け継ぐ」ためにまずしなくてはならないことは、「自国のことばを大切にすること」です。

 ところが現在の日本を見るとどうでしょう。街には英語があふれています。お店の看板などもアルファベットやカタカナばかりです。面白いことにTシャツなどには必ずと言っていいほど英語や他の外国語がプリントしてあります。日本語が書いてあるものはむしろ「変わったTシャツ」です。日本人はなぜもっと日本語を世界にアピールしないのでしょうか。類希なる経済大国であるにもかかわらず会社名もそのほとんどがアルファベットですし、世界に誇る日本車のネーミングもほぼ100%アルファベットでしょう。外国で日本車に乗っている人からしてみたら、漢字の車名であればブランドとしての価値も上がってうれしいはずです。せっかく高性能な日本車に乗っているのにアルファベットだとどこの車だか分からない。

 昔から国内で漢字廃止論が出たり、英語公用語化論が出たりと、ある意味日本人は世にも珍しい、自国語を粗末に扱う民族です。それは有史以来、今日まで他国に侵略されて言葉を奪われたという経験を持たない日本の特徴かもしれません。現在世界にはおよそ6000の言語があると言われています。その中には、話者総数が10人、20人という絶滅寸前のものもあります。そんなことは知らず、日本では小学校にまで英語教育を導入しているという有様です。国語もろくに出来ない子供に英語を教え込む危険性を日本人は知らない。私たちは日本語をもっと大切にするべきなのです。

 やっと本題です。なぜ「ネイティブスピーカーの英語」は問題か。これを説明するには本当は10枚くらいプリントが出せるといいのですが、それでは誰も読んでくれないので、国を米国に絞ってすごく端的に理由を言うと、.▲瓮螢英語を学ぶことが、米国の文化や生活様式をもれなく連れてくる、⊆蕕襪戮日本の言葉・伝統・文化が廃れていく、F本がダメになり、世界がダメになる、ということです。

 「言語が文化と密接につながっている」ことは前述の通りです。終戦直後の日本人は、アメリカの生活様式にあこがれました。家中に行きわたる暖房や、冷たい冷蔵庫など、夢のような生活です。しかし、世界に誇る経済大国、技術大国となった現在の日本にはもはやアメリカから文化的なもので得るものはありません。むしろ科学技術などはこのへんにして、物質的に豊かになりすぎたこの国を自然と共存するような方向に向かせるべきなのではないでしょうか。アメリカという国は立派な人がいたり素晴らしい点もある反面、まったく真似すべきではないこともたくさんあるのです。アメリカ在住者による世界資源の消費率(世界比)は33%にもなるという報告もあるくらいです。つまりアメリカ式の生活を維持するためには莫大なエネルギーの消費が必要になるのです。さらに有毒性廃棄物の排出率も半端ではありません。アメリカ一国だけだから世界はなんとかもっているのであって、これを世界中の国々がやってしまうと地球はたちまちパンクしてしまう。ここに英語を米国の母語として学ぶことの大いなる危険性があります。いかに猛勉強して英語が達者になっても、カッコつけてアメリカ式の生活などするものではないのです。

 日本のように、国を挙げて全国民がある特定の外国語を習得しようという意向自体が実は大変危険なことです。自国の言葉や文化を絶滅の危機に追いやる可能性があるからです。しかし世界と渡り合っていくには英語をやらないわけにはいかない。だから日本の全国民が十分注意して英語学習に取り組まなくてはならないわけです。そのためには、まず英語はあくまでも世界共通語であって英語国の所有物ではないのだと認識することです。そして英語の前に正しい国語と日本史をしっかりと勉強すること。英語圏の文化が入ってきたことによって押しつぶされた日本の良き文化はたくさんあります。英語学習はやり方によっては日本の文化を根こそぎ抹殺できるほどの力を持っているのです。アメリカかぶれになるのではなく、日本人としての誇りを持って英語学習に取り組むことが大切です。

★ 今後、日本の英語はどうあるべきか
 
 これ以上の英語国文化の日本への入り込みを阻止すると同時に、日本には成すべき使命があります。それは、世界中へ感謝の気持ちを込めて日本の素晴らしい部分を発信していくことです。日本人は今日まで、その極めて稀有な性格をもって様々な文明・文化の良い部分を吸収し、経済・技術面において大国となることができました。そして今、世界への恩返しをするときなのです。日本の素晴らしいところは、多神教を基とした自然崇拝・先祖崇拝の精神、森羅万象との共存の精神を捨てることなく、類希なる謙虚さ・勤勉さをもって他国の優れた技術を手に入れたことです。今こそ日本人は自らの長所を再確認し、誇りを取り戻して、その素晴らしさを世界にアピールするべきなのです。そして、皆さんの英語がその日本の精神を伝えるための「道具」であってほしいと願っています。英語はべらべらカッコよくしゃべることができればいいというわけではありません。しゃべる内容がなければ全く意味がない。他国の人からも決して尊敬されません。大げさではなく、間違った英語学習は日本を崩壊させる根源だと思います。逆に私たち日本人が「道具」としての英語を上手く使いこなせば、日本を活性化させ、世界を平和へ導く大きな宝となるのです。それこそが私たちが英語を学ぶ最大の目的です。決して、ペラペラになって米人友達を作り優越感に浸るためでもなければ、海外旅行中のショッピングを快適にこなすためでもないのです。
2006.11.14 Tuesday 14:30 | comments(3) | trackbacks(2) | 英語・英語教育 | 

日本人にとって英語とは何か:1

 最近授業で「The English Language –Where Did It Come From?-」という長文をやっている。イギリスに端を発し、今や世界中で使われている英語。その生い立ち、英語という言語の由来・起源などについて書かれたものだ。ごく簡潔にあらすじを書きたいと思う。

紀元前55年にローマ軍がヨーロッパ大陸から海峡を渡り、たどり着いた島を「ブリテン」と名づけた。このときは長居はしなかったが、紀元43年にローマ人は再びブリテンを侵略。今度は400年もの間とどまった。ローマ人の言語はラテン語である。英語にラテン語を起源とする単語が数多くあるのはこのためだ。
5世紀になると、ローマ人に代わってアングロサクソン族がブリテンを侵略し、その島を「アングルランド」(イングランド)と名づけた。そしてイングランドではイングリッシュが話され始める。その後、デーン族の侵略、ノルマン人の侵略などを経て、デーン語、フランス語などが英語に入ってくる(フランス語は200年間貴族階級の言葉になった)。そのような経緯で、現在使われている英単語の多くはラテン語、デーン語、フランス語に起源がある。
17世紀になるとイギリスは世界中に植民地や市場を開き始め、英語はあらゆる大陸の人々に使われるようになった。英語を使う人々もスペイン語や日本語などの他言語から学んだ単語を英語として使うようになった。このようにして、今や英語は世界で一番豊かな言語になり、世界中で話される国際語となったのである。

 この長文を扱うにあたって、いわゆる国際語としての英語と英米人の母語である英語を生徒に区別させ、我々日本人が学ぶべきものはあくまでも国際語としての英語、すなわち英米人の手から完全に離れた(英米文化をできる限り排除した)「武器」としての英語でなければならない、ということを伝えたかった。そこで、この単元を終えたあとに、「日本人にとって英語とは何か」と題して生徒にプリントを配ることにした。私は慶応大学の鈴木孝夫先生のお考えにかなりの部分において賛同しているので、考え方としては同先生の著書に記されていることと類似したものである。生徒に配布したプリントを次回の記事に載せたいと思う。
2006.11.14 Tuesday 14:22 | comments(0) | trackbacks(0) | 英語・英語教育 | 

雑誌「新英語教育」の大罪

 最近、学校に毎月送られてくる三友社出版の「新英語教育」なる雑誌を読んでみた。似たタイトルで大修館の「英語教育」というのがあるが、両者のコンセプトは全く違う。というのも、「英語教育」については特筆すべきものではないのだが、問題は「新英語教育」である。これがとんだサヨク雑誌なのだ。先日、今年の9月号を手にとってみたのだが、見出しのトピックにはこうある。「平和教育に生きる〜9人が語る私と平和〜」と。そもそも、この雑誌を編集している「新英語教育研究学会」は、「英語教育は平和教育」であることを主張し続けてきたらしい。私は平和主義自体を真向から非難するものではないが、俗に「平和教育」というと、大きな問題を抱えていることが少なくない。この学会の目指す平和主義志向がどういった類のものかをわかりやすく言うと、教育基本法改正を「改悪」と呼び、社会の保守化傾向を憂う類のものである。

 以前にも書いたことがあったが、この手の英語教育を支持する教育者は、世界中の様々な民族のアイデンティティを尊重し、「多様な価値観」というキーワードを重視する傾向にある。他を尊重するのは大いに結構だが、そこに端を発して「日本人の価値観に囚われてはいけない。」という甚だしい本末転倒状態に陥るのだ。他を尊重するのになぜか自身を尊重しない。結局彼らの主張する平和教育とは以下のようなものになる。

 「世界中の多様な価値観を認め、戦争のない世界作りに努めよう。日本は先の戦争において近隣諸国に多大な被害をもたらし、多くの国民を死なせてしまった。日本の価値観にこだわっていると平和は決して訪れない。子供たちを再び戦争に行かせないために、国家を教育に介入させてはならない。子供たちの個性を伸ばし、人権を守ろう。」

 こういった教師の目には、戦前の日本の教育は全て悪として映る。そして、戦争をせず、平和でありさえすれば何でもよい、という錯覚に陥りがちである。そして「私は、すべてのいのちを尊敬します」などというきれい事を言ってのけるのだ。こういう人は犯罪者のいのちも尊敬するのだろうか。本当にあきれてしまう。

 ところで、この雑誌に「OPINION POSTERに願いを込めて!!〜平和の思いを届けよう〜」というページがあった。これはある中学校教員の実践した英語授業レポートである。生徒たちの平和への思いを英文のメッセージにして絵と英文でポスターを書かせるというものだ。出来上がったものは「人権文化発表会」(なんなんだこれは。)なる場で発表するらしい。あるポスターには大きくこう書かれていた。
 
 「“HUMAN − LOVE = WAR” War will happen when we forget love. It is important for people around the world to think about love.」

 「人間−愛=戦争」とはまたえらく安直なことを考えたものだ・・・。しかし、その場にいた先生はまず間違いなく「素晴らしいキャッチコピーを考えたね!」と誉めたことだろう。でなければ代表作品として雑誌に載せるようなことはしないはずだ。人間−愛=戦争・・・。私はこれを見てすぐさま特攻隊員として散華された方々のことを思い、憤った。国のため、家族のために命を擲った方々は愛をなくした極悪非道の人間であったのか。愛を持たないのはむしろそのような発想しかできない人間のほうである。といっても相手は子供だ。ということはつまり、そんな教育しか子供たちに施すことのできない教師にこそ「非道」という言葉が当てはまるのではないか。

 雑誌「新英語教育」は、一部始終がこのような思想一色で塗り固められており、吐き気を覚える。そして日本中で多くの英語教師が愛読しているのだと思うとため息が出るのであった。
2006.10.23 Monday 21:21 | comments(3) | trackbacks(0) | 英語・英語教育 | 

「英語で修身」の実践 「孝行」

 「英語で修身の内容をやると良い」と言っているだけでは始まらないので、とりあえず修身の教科書から短めのものを抜粋して英語に直してみた。
 以下は、二宮金次郎を題材にした、第三期(大正7年〜)の「尋常小学修身書 巻三 児童用」から第3項「かうかう」(孝行)である。

(英文)
 Filial Piety
 Ninomiya Kinjiro’s family was very poor. Kinjiro had always helped his parents ever since he was a little boy. When Kinjiro was fourteen years old, his father died. Their life became even harder, and so Kinjiro’s mother had to leave her youngest son with her relatives. However, every night after that, she was too worried about him to sleep well. Considering his mother’s feelings, Kinjiro said to her “I’ll work hard for you and my brother so that we can live all together again. Please bring back my little brother.” His mother was very glad to hear that and hurried to her relative’s house to get her little son back. After that, They lived happily together.
Filial piety is the beginning of virtues.

(原文)
第三 かうかう
二宮金次郎は、家が大そうびんぼふであつたので、小さい時から、父母の手だすけをしました。
金次郎が十四の時父がなくなりました。母はくらしにこまつて、すゑの子をしんるゐへあづけましたが、その子のことをしんぱいしてまいばんよくねむりませんでした。金次郎は母の心を思いやつて、「私が一しやうけんめいにはたらきますから、おとうとをつれもどして下さい。」といひました。母はよろこんでそのばんすぐにしんるゐの家へ行つて、あづけた子をつれてかへり、おや子いつしよにあつまつてよろこびあひました。
 孝ハ徳ノハジメ。

「修身」全資料集成

修身のことを知ろう!
「修身」全資料集成 (四季社)
序:渡部昇一 監修・解題:宮坂宥洪

2006.10.09 Monday 02:56 | comments(0) | trackbacks(0) | 英語・英語教育 | 

脱・「日本を滅ぼす英語教育」

 修身、道徳、宗教教育、いずれの実現も難しい我が国の学校教育を尻目に、英語教育はなぜか恐るべき猛威を振るっている。

 開国以来日本は、「脱亜入欧」という言葉があるように欧米列強に追いつけ追い越せと、海の向うの文化、優れた技術、社会制度、学問などを必死になって取り入れ、我が国の独立を死守しようとした。欧米の書物から学ぶために英語の読み書きに勤しんだ。当時の日本人にとっては、英語は欧米列強と肩を並べるために必要不可欠なものだったのだ。異国の文化を取り入れる。英語はその手段として日本人に利用された。鈴木孝夫氏は「日本・日本語・日本人」の中でこう述べている。

 「明治初期の英学の実態とは何かを一言で言えば、それは海外からもたらされる洋書あるいは原書と呼ばれた英語の書物を解読して、そこに書いてある日本にはない先進国イギリスのもつ高度な技術や学問知識を学び、更には広く西洋一般の歴史、社会、法律、経済、哲学や文学なども知識までも、それらを可能な限り日本に取り入れて、日本を改造するための知的な作業であった。」(「日本・日本語・日本人」大野晋・森本哲郎・鈴木孝夫共著)

 欧米に追いつき、世界を動かす経済大国、技術大国となった今の日本において、我々日本人は何のために英語を学習しているのか。年齢や立場によって人それぞれ目的はあろうが、例えば中央教育審議会をはじめ小学校英語肯定論者は、往々にして早期英語教育を「国際理解教育の一貫」と位置づけたがる。しかし実際やっていることはネイティブスピーカー至上主義に基づいた「どれだけ英米人のしゃべり方、身振り手振り、雰囲気をうまく真似できるか」というお稽古のようなものである。英会話学校における学習(?)もまさにこのお稽古に他ならない。その証拠に、英会話学校のインストラクターのほとんどは英米出身の白人が占めている。

 明治の日本が、欧米の文化を取り入れるために英語を学んだように、言うまでもなく言葉と文化は密接な関係にある。日本独自の文化は日本語なくして形成されることはありえない。日本の文化・伝統を正しく後世に伝えていくためには、いつの時代にもきちっとした国語教育が必要である。ところが、我々日本人は世にも珍しい「自国の言葉を捨てたがる民族」である。英語の国語化を提唱した森有礼、日本語を不完全な言語とし、日本語廃止・フランス語採用論という暴論を吐いた文豪・志賀直哉もさることながら、街にあふれる横文字、ありとあらゆる品物につけられた外国語の商品名を見ればそれは明らかだ。多くの日本人にとって、日本語は「ダサく」て、英語やその他の外国語は「カッコいい」のである。しかし、危険なことに、外国語を取り入れれば取り入れるほど、それに付随する文化までもが日本に入り込んでくることになる。現在小学校にまで侵蝕しつつあるネイティブ至上主義の英語教育は、言語と文化間の密接な関係が故に、英米の文化をしっかりと連れて来た。教育内容が読み書きよりも会話中心になればなるほど、あるいは教員にネイティブスピーカーが増えれば増えるほど、「アメリカン」な、あるいは「ブリティッシュ」なセンスを身につける得体の知れない似非日本人を増産するようになってしまった。もはや我が国は、英語という言語に支配された植民地である。

 英語教育に携わる人間ほど、英語を売り物にしているだけにこのようなことに気付かない。というより、英語教育者がすでに似非日本人であることが少なくない。なかんずく英語教育=国際理解教育と考えている英語教員は曲者であることが多いように思う。と言うのは、国際理解教育は「価値観の多様化」というキーワードに結び付けられやすい。つまり、この手の英語教員の考え方に多く見られるのは、「日本人の価値観に固執してはいけない。世界には様々な民族がいて、多種多様の価値観や文化がある。日本人だから、何人だから、という線引きは要らない。みんな同じ人間。我々は地球市民じゃないか。」というものである。そのような考えの人にとっては、ネイティブ至上主義の英語教育が日本の社会にとっていかに恐ろしいものかなどということは分かるはずもない。そして、その成れの果てが、以下のような英語教師の声である。

 「英語の教科書を開くと、そこにはいろいろな文化・いろいろな人々・いろいろな価値観がぎっしり詰まっています。違う価値観を持つものに対して偏見を持つな!と訴えている教材も少なくありません。そんなことを教えながら、なぜ何から何まで同じ格好をするよう指導しなければならないのか・・・・・・。」(寺島隆吉著:「英語にとって教師とは何か?」)

 この言葉は寺島隆吉氏の著書に紹介されている、服装、化粧、ピアスなどの生徒指導に悩む若い女性教員のものである。ちなみに著者の寺島氏は、「多様な価値観こそ英語教育の要」と言ってのける人物で、当然この女性教員の言葉に対しては好意的だ。服装は個人の「思想・表現の自由」のひとつであり、職場でもネクタイをする気にはなれない、と言っている。寺島氏のこの著書は、私が今までに読んだ英語教育関係の書物の中で最悪書のひとつである。彼自身の生徒の服装指導に関する言葉をいくつか紹介すると、

「『どんな服装がよくて、どんな服装が悪いか』は、これといってはっきりした根拠が全くない」

「例えば、一般に女性の服装だと思われているセーラー服は、実はアメリカ水兵の服装と同じであるし、スカートを男性がはいている民族は世界にいくらでもある。」

「アメリカの中学・高校を訪問したことがある教師なら誰でも知っていることだが、服装は全く自由だし、化粧をしてピアスをしている生徒がいても、それが当然のごとく受け入れられている。日本人だって、髪が白くなって格好悪いと思えば、それを黒く染める人は少なくない。」

「服装の取り締まりは、教師と生徒の亀裂を深め、授業不成立の原因をつくるという点で、百害あって一利もない。したがって当面、服装の取り締りからは一歩退くことである。」

「服装問題は『正しいかどうか』ではなく、『当人がその姿を気に入っているか』、当人が気に入っているとしても、『それを見た相手が、その姿を似合っていると思うか』という問題にすぎない」

と、このようなことを大真面目に語っているのである。嘆かわしい今の高校生の倫理観などものともせず、むしろピアスをすること、髪を染めることを「自ら表現方法を選んで決定できた」ということで「良い傾向」であると言いたげだ。日本をダメにする英語教育とはまさにこのことである。

 国際理解を深めるための英語教育から多様な価値観を学び、その結果日本人の価値観を捨て、地球市民なるものを目指した先に何があるのか。結局は、多様な価値観を尊重するために身につけたはずの英語が、少数民族の価値観やアイデンティティを抹消し、世界の言語の英語単一化を助長し、英語文化の世界支配に一役買っているということに他ならないのである。

 私はいっそのこと「修身」の教科書から、現代の日本社会においても通用する貴重な徳目を抜粋し、英訳して英語教材として使えないだろうかと考えている。必要以上の英語文化の侵入防止策と同時に、日本人教育の一助にもなる。さらに、「日本人の英語話者」として、真の国際交流ができる人材の育成にもつながるのではないか。このような発想は、相当の非難を浴びることは請け合いだが。


★「修身」のことを知ろう!
「修身」全資料集成
「修身」全資料集成
宮坂 宥洪, 渡部 昇一
2006.10.01 Sunday 10:30 | comments(2) | trackbacks(0) | 英語・英語教育 | 

国際理解教育?植民地化教育?

 言語社会学者・中村敬氏によると、小学校への英語教育の導入に対して賛成派の意見の多くを占めているのが「国際理解教育として効果がある」ということだそうです。しかし、国際理解教育=英語とはこれいかに?という疑問がわきます。どうも国際理解といえば英語とすぐに直結させてしまう輩がたくさんいて困ります。中村氏は著書『なぜ、「英語」が問題なのか?英語の政治・社会論』(三元社)の中で、以下のように述べています。

 中学から高校まで英語を「第1外国語」として半ば強制している状況は、英語以外の言語を母語とする人たちの存在を頭に思い浮かべることさえできない人間を大量につくり出している。そうした状況は民族の共生を志向する正しい意味での「国際教育」とはほど遠い。そのうえ小学生にまで英語を一律に課すようなことにでもなれば、日本人の精神の植民地化は決定的となるだろう。

 やはり現在多くの小学生が学校で英会話や英語を使ったゲームを通じて英語国の言語や文化を体得していることを大きな問題として捉えないわけにはいきません。

 私の勤務している中高一貫校で現在使われている英語教科書は、非常に排他的でひどく英米の文化に固執しており、アングロサクソン一色の教科書です。まず第2巻の1ページ目を開くと、アメリカ全土の地図が載っています。第3巻はイギリスの地図です。長文の内容も、以前このブログにも書きましたが、「エイブラハム・リンカーン」であったり、ほかにも「ジョージ・ワシントン」「パトリック・ヘンリー」「The 49ers」など、もろにアメリカの偉人や政治家などを知るためのものになっているのです。

 教科書によっては書名からして「冗談じゃない」と言いたくなるものもあります。例えば「コロンブス」です。「クリストファー・コロンブス」。アメリカ大陸を「発見」した男。先住民がいたにもかかわらず「発見」とはどういうことか。彼らアングロサクソンは、我々と同じモンゴロイドであるネイティヴアメリカンを人間とみなしていなかったのです。中村氏はコロンブスのアメリカ大陸到達が歴史的にどのような意味を持っているかということを簡潔に次の2点で表しています。

(1) 白人による先住民の大量虐殺への道を付けたこと。

(2) ヨーロッパの拡大主義の端緒となったこと。

このことは、ヨーロッパの他民族への侵略の皮切りになっているとも言えるのです。そのような名前の英語教科書をなんとも思わない日本の英語教育界は、悲しいかな精神の植民地化を象徴していると言わざるを得ません。

 アングロサクソン至上主義的な教科書は内容も日本人の生徒達の生活とはかけ離れているので、決して面白いものではありません。学校指定の教科書である以上それを使わないわけにはいきませんが、同じ長文をやるにも「もって行き方」が肝心です。そして、英語教師は生徒のためになる「日本を知り、英語で世界に発信するための」副教材を用意して授業に臨むように努力したいものです。

なぜ、「英語」が問題なのか?―英語の政治・社会論
なぜ、「英語」が問題なのか?―英語の政治・社会論

2006.10.01 Sunday 02:57 | comments(0) | trackbacks(0) | 英語・英語教育 | 

インド英語に学べ

 インド人の独特な癖のある英語を聞いたことがあるでしょうか。非常に聞き取りにくいものではありますが、彼らはアメリカ人やイギリス人のようにしゃべりたくてもしゃべれないからインドなまりの英語をしゃべっているのではありません。彼らはインド英語に自信と誇りを持っており、英米人のようにしゃべる必要もなければしゃべることを望んでもいないのです。それは、英米人の模倣をし、少しでもネイティヴに近い発音やアクセントを身に付けることに多大な力を注いだり、またネイティヴのようにしゃべれなくてはかっこ悪い、という考えを常に持っている日本人の英語学習者とインドのそれとの大きな違いです。実はインドに限らず他のほとんどのアジアの国の英語学習者は、ネイティヴスピーカーのようにしゃべることを目標としていませんし、自国のなまりを恥ずかしいとも感じていないのが実態です。本名信行氏は著書「世界の英語を歩く」の中で、インド人が英語を必要とする理由を現地で聞いたところ次の順位だったとして以下の5つを挙げています。_奮惶蚕僂諒野で最新の情報を獲得するため。国際コミュニケーションのため。J豸譴琉磴Εぅ鵐豹佑箸離灰潺絅縫院璽轡腑鵑里燭瓠す眦戮龍軌蕕箜惱のため。コこ阿両霾鵑鯑世襪燭瓠「英語国民の文化を理解するため」という意見は全く低位であったそうです。つまり、異文化理解という目的よりも、国の発展のための武器(道具)として英語を使っている傾向があるわけです。本名氏曰く、「インド人がインド人ふうの英語を使うことは、自分は英語を話してもイギリス人ではなく、インド人であるというアイデンティティーの表現でもあるのです。」本名氏の体験談で興味深いものがあったので紹介します。

 私はある会合で、インド人に“Are you an American?"と問われたことがあります。"No. I'm a Japanese." と答えると、"Why do you speak English like an American?"(日本人なのにどうしてアメリカ人のような話し方をするんですか)と言われました。これには本当に考え込んでしまいました。(P.46)

 インドはイギリスのアジア進出の皮切りになった国です。かつて自国を植民地にした国の言語をしゃべることを必要としてはいますが、インド人としてのアイデンティティは大切にしている。発音・イントネーションもさることながら、文法・語法面においても、ネイティヴの英語にはないインド人の生活に根ざしたインドふうの言い回しなどがたくさんあります。しかし、本名氏は「このようなイギリス臭のとれた英語は、海外でけっこう評判がよいのです。アラブ諸国はインド政府に英語教師の派遣を依頼しています。インドは英語教師の輸出国なのです。インド人の英語運用能力の高さは、非母語話者のよき手本となるでしょう。」と書いています。

 かつてGHQに占領された日本は戦後180度方向転換をし、ある意味では自ら自国の文化・伝統を捨て、アメリカの言語、文化、生活様式などに自ら跳びつくように身を委ねてしまいました。その結果、一体何人なのか、文目もわかぬ正体不明人間が今の日本にはあふれています。ネイティヴスピーカー至上主義の英語教育の中で、ネイティヴスピーカーのようにしゃべり、振舞う、それこそがかっこよく、他人よりも秀でていることの証明であるかのようです。その教育で日本人の心まで奪われてしまうのなら、英語は必要悪というものです。日本人ならおじぎをしながら"hello"と言ったってよいわけです。しかし、今の日本の英語教育では「英語で挨拶するときはおじぎじゃなくて握手ですよ。」と訂正されることでしょう。我々は、英米の文化社会に同化することを英語学習の目的としてはいけません。英語学習はあくまでも、日本という国の発展のためであり、日本人のアイデンティティを世界に発信するための武器でなくてはならないのです。我々もインド英語に学ぶべき点はたくさんありそうです。

世界の英語を歩く
世界の英語を歩く
本名 信行

2006.10.01 Sunday 02:49 | comments(0) | trackbacks(0) | 英語・英語教育 | 
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